いじっぱりは強情である。頑固で自分の考えを変えないときには、怒りが心を支配している。怒りは自分に向けているときもあり、他に対してのときもある。一つのことを思いこみ、こだわり、そこから離れられない状況に自分を追い込んだとき、意地をはる。そして沈黙する。



心が頑なになると、受け入れはできなくなる。




人は身体が悪くなると、心の働きも制約を受け、自由活発に考え、行動することができなくなる。



長い時間をかけて「私」ができあがっていくから、間題解決には「私」の納得と安定が必要である。他の人がよいと思って押しつけても、自分がよいと思わなければなかなか心の中が落ち着かない。また、おいそれと他人がよいと思うことを受け入れるほど、個々の人間の存在は簡単ではない。問題解決の過程にはその入らしい宇余曲折があり、その人の好む方法を用いて解決することで安定が得られる。



何がおこったのかということの説明が主ではなく、そのとき私はどう思ったか、何がおこったかということより、それがおこったとき何を感じたかということの中に話したいことが隠されている。



 私たちが自分について話すとき、私たちが相手に伝えたいことは多くの場合、私たちの気持ちなのである。感情を理解し共感してもらうとき、私たちはわかってもらえたと感じる。共感するというのは、感情を共有することである。



援助は相手の自発を手助けするものが望ましい。
そのための生活改善は本人の納得が必要である。こちらの考えで相手を引っ張っていっても、本人自身の改善過程がないから生活態度を変えるのに困難が伴う。ああしてはいけない、こうしてはいけないと指示、命令して緊急時を切り抜けることができても、それ以後の生活は元に戻ってしまう。
自分の生活を変えていく必要があると自分が感じたとき、努力が続くのである。



公平であることも、正しいことも人は好きである。しかし人が多くの間題をかかえるとき、公平や正しさを求めて話をするのではない。自分の真情を吐露したいのである。その真情を理解してほしいのである。その過程の中で人はその人自身の力で、自分の持っている考えや感情を整理し、判断し、自分の本質に近づいていくのである。



自分の感情、考え、願いを相手に投影してはいけない



他の例を感心して聞くこともあるが、自身のことでないので心の中ではしっくりしない。



自分に無関心な人は人にも無関心である。



人は「いけないこと」であっても、「このように変わるとよくなる」ということであっても、物事によっては、そうすんなりと言動を変化させることはできない。それぞれ長い時間をかけて私を築いて生きているから、理屈を抜きにした自分の様式を持っている。

たとえ家族であっても、親子であっても、自分以外は「他の人」なのだと。
いろいろと思い当たることもあり、母親との片付けバトルの間のアレコレについて、いまさらながらに納得してしまう言葉でした。

これを読んだからといって何かの役にたつわけではないのですが、一つの視点、考え方、もののとらえ方としてメモしておきます。


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