考えが変われば 意識が変わる

意識が変われば 行動が変わる

行動が変われば 習慣が変わる

習慣が変われば 人生が変わる

人生が変われば 運命も変わる


いつ頃、どこで覚えたのかは不明です。
ただ、片付けを始めてから、ずーーーっと頭の隅にあった言葉。

インドのヒンズー教の教典に同じような教えがあります。
こちらの方がシンプルなぶん、分かりやすいかなと思います。

私が片付けについて本格的に、「このままじゃだめでしょう。どうにかせんといけん!」と思うようになった転機は、たぶん13年前が始まりだったように思います。

その年も暑い夏でした。
以前にもブログでちょっとだけ書いたことがありますが、父親が突然の心臓発作で倒れ、幸い一命は取り留めたのですが、蘇生に時間がかかって蘇生後脳症といわれる植物状態になってしまいました。
人工呼吸器が外せるようになるまで数ヶ月かかりました。
高齢の祖母の世話、農業もあり、高額の医療費やら、生活の激変への対応もあって、父が亡くなるまでの数年は、本当に人生最大の修羅場だったかも……w

その頃は、部屋が荒れまくりでした。
もともとモノが多すぎる(主に本が)、多趣味もあってその関係のアイテムもありすぎだったし、昼間の勤めとは別に夜や休日に、今の仕事をやって、いわゆる二足のワラジ状態でした。
当然のことながら、母も私も最低限の生活維持くらいしか家事なんかできなかった。

父が亡くなった頃には、高齢の祖母の介護が本格的になってきて、母親もそれまでの無理が祟って膝を痛めたり、親戚とのアレコレで、とても母親一人では無理と判断して、勤めを辞めて自宅仕事一本に切り替えることに。

体調を崩した祖母が3ヶ月ほど入院している間に、介護のための環境を作るために、祖母の部屋を片付けることになりました。
もともと家事ができない・しない人だった祖母の部屋は、はっきり言って中程度の汚部屋でした。
6畳と4畳半の2室を片付けるのに、結局、一月かかりました。
あきらかなゴミ以外は、全部箱に分類して、すべて捨てずに置く。

祖母の使っていたのは、たった2部屋ですが、他人が来ても平気な状態まで片付けるということが、どれほどの重労働か心底味わいましたw
家の関係の書類で、祖母が「そんなもの無い」と言い張ったものも出てきたりしました。

人生の中では、ライフスタイルの激変を否応無しに突きつけられたり、加齢や健康を損ねたりして、出来る事のレベルが低下するということがあるものです。
女性は特に、人生での節目というものが多いので(親元からの独立独居、結婚、出産、育児、共働き)、そうした「変化」が避けられないことが多いですよねえ…。

時間に追われて、食事の支度もそれまでのやり方ではできなくなり、やむを得ず総菜や出来合いのものを買ったり、時間をかけずに食べられるもので過ごしていると、如実に家計費が跳ね上がっていきました。
うまく回らない家事、不満足な食事、ストレス……イライラと体調の低下。

このままじゃだめでしょう!
もっと暮らしが楽になるようにしないと!

そう考えるようになると、毎日の暮らし、家の中、自分の身の回りと、意識して見るようになりました。

そうして、考え方が変わると、物事に対する意識も変化します。
意識が変わると、自分のまわりの世界(環境)の見え方も変わってくる。
体調を崩したり、家族の変化もあったりで、

さらに 家事が、片付けが できるようになりたい じゃだめだと。
本当に必要なのは、する という意識と行動なんだと身にしみたわけです。

意識が変われば、行動が変わり、行動が変われば、習慣が変わる。

習慣というのは、結局、「時間の管理の整理整頓」でもあり、自分の行動の優先順位にも関わるものだと思います。
やらない・習慣じゃないもの というのは、突発的な緊急性は別にして、自分の中で優先順位が相当に低いということ。
結局、4年間の一連の「片付け作業」は、動きやすくするという下準備であって、本当の努力ポイントは、常に意識して、行動して、「習慣」にすることなんだろうなあと、ようやく漠然として分かってきたように思います。

出来ないときもあるし、したくない時もあります。
それが普通だろうし、そういうゆるさでもいい、続けて行くのだから。

冒頭の言葉の3行目までは実感中。
4行目以降は、まだわからないw

自分の出来ないこと、足りないこと、不自由なことを思い悩んで、後ろ向きに物事を見ていたり、自分の不幸や不運を嘆いたりしていた時もありました。
だけど、意識が変わったおかげか、ただ、今があることの「幸運」と「幸せ」を感謝したいなあと思います。




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