15-12-31 アフガン編み-01

15-12-31 アフガン編み-02

写真は、ちまちまと残り糸の始末で編んでいたハンドウォーマー。
ダブルフックアフガンの12号で、並太と極太をざくざくと編むので、隙間時間だけでも1日に1セットは編めます。

こんなに編んでも、全部は自分で使い切れないだろうけど、気に入ったものだけ残して後は処分かなあ。

今年も、残すところ数時間です。
良いことも悪いことも含めて、今日で2015年も終わり。
いろいろあっても、なんとかなったし、出来たことも、出来なかったこともあるけど、概ね平和な年だったのでヨシ!

今年も、拙 ブログを読んで下さった方、ありがとうございました。



最小限のモノで暮らす“ミニマリスト”の一家に密着

私はこの番組を見ていないのですが、こういうのは定期的に出てくるけど、番組の仕込みじゃなくて本当にこういうご家族がいらっしゃるのなら、なんとも凄いですよね。

お一人様でのミニマリスト暮らしというのは、結構いらっしゃる様子。
家族で、ここまでの状態というのは、珍しいというか、一種異常に見えます。

断捨離ブログでも、捨てる物が無くなったと感じたときからが真の断捨離とかという言葉も拝見します。
捨てたいと思うのは、今の自分を否定したいからだから、自己否定を辞めてはいけないとか書かれている方もいます。

捨てる・捨てた という記録とか記述はよく拝見しますが、なんのために捨てるのか、捨てた後の生き方・暮らし方をどうしたいのかというのは、あまり拝見したことが無いように思います。

捨てることにこだわると、回りのものに対する感覚が変化していくように感じます。
まわりの必要ないと思えるものや気に入らないものがノイズのように感じられるのですが、捨てれば捨てるほどその感覚は鋭敏になっていくのではないでしょうか。

ちなみに、実体験ですが、ものを捨てたからといって、インテリア雑誌のような綺麗な家にはなりませんよ?
洋服をごっそり捨てたからといって、お洒落にはなりませんw

捨てることと、収納・管理と、使った物を戻す習慣、掃除をする習慣は別の次元のことです。

自分にとってノイズに感じられる物を捨てたら、気分はせいせいするでしょう。
そのせいせいする気分に味をしめて、捨て中毒にならないように、気をつけたいもの。

私も相当な量のものを捨ててきました。
理由は、それを捨てないと、新しい必要なものを収納できなかったから。
環境の変化、暮らし方の変化、家族の年齢経過によるニーズの変化に対応するためには、どうしても物を整理して、見直して入れ替えていくために捨てないといけなかったのです。
なので捨てることは否定しません。
捨ては、目的のために必要な手段ですから。

捨てることにとらわれすぎないほうが良いと思うのです。
捨ては必要だけど、あくまでも手段。



15-12-26 アフガン編み 筋編み

アフガン編みの編み方を色々とお試し中に、リストウォーマーあたりだと、残り糸の始末に最適なのかもしれないと思いました。
30センチくらいまでなら、残り糸を捨てるのはかなりハードルが低いけど、60センチくらいだとなかなかに難しいのです。
理屈じゃないのですよ……もうね、そういう習性の生き物だとでも思って下さい(苦笑

写真の編み方は、アフガン編みの筋編みというやり方で、往き目じゃなくて返り目といわれる糸がキレイに表にでる編み方です。
これを工夫すると、編み込み模様みたいなものが作れます。
もっちりと肉厚で暖かなリストウォーマーができるので、処分したい糸全部これでつくって、親戚のじじ・ばばに配ろうかなw



実用品ではないけど、今とても欲しいものがあります。

宇宙ガラス +α

戸水 賢志(とみず さとし)さんの作られているガラスアートです。

石好きは、概ねガラス好きでもあるので、こういうのに目がありません。
ほかの作家さんの作られている、同じ系統のガラスアートもキレイです。

いつかお小遣いをためて買おう。



15-12-23 リストウォーマー

アクリルたわしには向かない柔らかいアクリル糸がかなりあるのと、仕事中に手が寒いのでお手軽リストウォーマーを編んでみました。
ダブルフックアフガン針で、2色編み。
水色と白は、プレーンアフガン、オリーブと白は一目ゴム編み。

アクリル糸でも乾式アクリルと言われる糸は、案外に暖かいです。
編み方は簡単。
ただ円筒形に編んで、親指用の穴を編まずに空けるだけ。

どうしても「もったいない」の気持ちが邪魔して、糸では捨てられないので、こうして形にして、使ってから捨てます。
次は、室内用のネックウォーマーでも編もうかな。
冷え性の人は首を温めると良いとか。
在庫処分したい糸で、シーズン限りの小物を編むのもいいかも。

ちなみにアフガン編みは、淡い色合いのほうが好きかも。
お試しで濃い色を使ったけど、いまいちボッテリとダサイ感が……。







すごく笑ってしまったw

うん、危ないよね……。


セシール フリースジャケット

セシール フリースパンツ

自分が太ましいのを自覚して、セシールの「大きいサイズのおしゃれ服 plump」というカタログから、この冬は2点を選んでみました。

カタログ写真は、ちょっとダサ気味に見えるけど、実際はシンプルですっきりとしたデザインだし、縫製も生地も申し分ないです。
洗濯機で普通に洗っても、糸くずやゴミが付かないし、毛玉にもならない優れものでした。
ジャケットのほうは、ミックスグレーとアンティックグリーンの2着。
パンツは2色をそれぞれ。

最初から、太め用なので、おなじサイズ表示でもすごく着心地が良いのです。
4着買ったので、くたびれたパンツ3本、着心地が良くなかったセーターとかシャツ、毛玉がいっぱいになっちゃったフリースなどなど、合計で6着を処分です。

気に入った使いやすく、着心地のいいものがあれば、安物でもOKなお洒落にほど遠い私w
そんなに数はいらないんだよねえ。
数があっても、結局は、自分にとって着やすいもの、好きなもの、我慢しない着心地 のものしか着ないもの。

年齢を重ねるごとに、我慢しない服 というのがpointになってくるw
見栄えのために寒いのを我慢するとか、かっこよく見せるために動きづらいのを我慢するとか。
若かった頃は、それがおしゃれなことだったけど、今は無理かな……。

年取ったね~~~(苦笑




パソコンやモニタは、家庭ゴミとして廃棄できなくなって久しいのですが、以外とその捨て方を知らない方が多いとか。

処分したいPCに、「PCリサイクル」のシールがある場合は、処分にお金はかかりません。

PC3R 一般社団法人 パソコン3R推進協会

該当するメーカーの窓口に申し込み、手続きして、ガイドラインにそって処理するだけです。

ひとつだけ注意すべきなのは、PCのハードディスクのことです。
私は、メーカーPCの場合でも、最後にはHDDをドライバーで取り外してから送り出していました。
取り出したHDDは、T8とT6という先端が☆型になった特殊なドライバーが必要ですが、完全に分解できますし、分解できたら、単なる不燃ゴミとして捨てられます。

ハードディスクを分解してみる

こんなふうに、分解の仕方も検索すれば出てきます。

モニタもメーカーサイトで処分窓口がありますので、同じように処分できます。

梱包は、別に購入した時に入っていた箱である必要はありません。
輸送時にばらけたりしない程度に、適当な段ボールでいいのです。

メーカー品のPCじゃなくて、自作系BTOカスタマイズと言われるタイプのPCの場合。
これは私の使うPCに多いのですが、廃棄する場合は、HDDを抜いて、使えるパーツがあるのなら自作する人に譲ったりしますが、大抵は、完全に分解して不燃ゴミで捨てています。
ドライバー1本でキレイに分解できます。

まれに、PCリサイクルシールのない、液晶よりも古い時代のCRTと呼ばれたモニタが眠っていた場合ですが、これに関しては少々お金がかかりますが、各メーカーの処分窓口から処分依頼することができます。

捨てるのにお金がかかるけど、置いておいても、結局はいつかは処分しないといけないわけです。




一人暮らしをしていた頃によくやっていた手抜き技。

休日に、タマネギ・白菜・シメジやえのき・大根を、だいたい次の休日までくらいの目安の量を、汁物用サイズにカットしてレンジで加熱しておいて、それぞれにタッパーにいれて冷蔵庫に入れていました。
お椀にインスタントの味噌汁の素と一緒に、加熱済みの野菜をちょいちょいと加えて、刻みネギ散らして、沸き立てのお湯を注ぐだけのお手抜き味噌汁w

そのときの気分で、おつゆ麩をいれたり、とろろ昆布を加えたりと、手抜き味噌汁ではありましたが、割と美味しかったものです。

本当はちゃんと真面目に作るほうが良いのはわかっています。
だけど、なかなか理想通りには体は動かないもので、こだわりすぎると、作れるときは作るけど、作れないときは全部ナシになってしまう。
それよりは、手造りよりは落ちるけど、無いよりはマシな「次善」のほうがいいよね と言い訳をしながら暮らしていたものです。

こだわりすぎないことも大事。
意外と「こだわる」ことは、ストレスにつながりやすいと思います。
自分への改善として必要な場合以外は、こだわりすぎると自己嫌悪とか自己否定への道を開いてしまうこともあります。

ま、ずぼらな自分の言い訳でもありますが、「こだわりすぎる」ことで心が頑なになることもあるので、ほどほどにと言い聞かせています。

最近のmyブームは、らっきょう。
水溶性食物繊維が多いので、お腹に良いのだそうです。
腸内細菌をペットだとおもって、ペットに餌をやって可愛がるような気持ちで暮らしましょう というのは、ガッテンでやっていたけど、これはこれで一種の「自分を大切にする」ということかもw


年末になると、なにかと忙しくなることの一つがお掃除。
お掃除用具のひとつの雑巾ですが、これが以外とめんどくさいんですよね……。

使うのはいい。
雑巾は使った後が、かなりめんどくさいです。
掃除で、いい加減に疲れているのに、さらに使った雑巾をキレイに洗って乾かす。
ものが雑巾なだけに、布巾や洗濯物とは別の場所に干したいものです。
田舎の家だから、そんな場所は用意できますけど、賃貸住宅なんかだと大変だろうなあと思います。

我が家にはニャコムがいるので、こいつのお陰で、とんでもない時間とタイミングで雑巾様のお世話になることがしばしばあります。
または、人間様のほうだって、食事中にお味噌汁のお椀をひっくり返したり、出来たシチューをよそって食卓に運ぶ途中に手が滑って床にご馳走してしまったり……w
いろいろとあるんです。
拭いたあとの雑巾の後始末は、いろいろとストレスだなあと、前々から思っていました。

夏頃に、ホームセンターで「ペーパーウエス」というのを見つけました。
コストコの青いペーパーウエスは、かなり有名みたいで、話には聞いていたのですが、コストコなんて隣県まで行かないとないのですよw
見つけたのは、50枚入りで328円だったかな。
これがなかなかに便利なんです。
使い捨てというのはもったいないのかもしれないけど、ササッと雑巾作業が終われるのは楽です。

ニャコムの吐き戻しの後始末と床の清掃も3枚あればOK。
ゴミ入れに全部放り込んで、後は自分の手を洗えば終わり というのは、すごく楽。

ガスコンロの掃除も、1枚あればOK。
重曹水を吹き付けて、拭いて、ゴミ入れにポイッ。

布の雑巾だった頃には、この後、雑巾を石けんでゴシゴシ洗って、ざーざーと水を何度も替えてすすいで~で、5分かからないコンロの掃除よりも、雑巾を洗う時間のほうが長くて面倒でした。
ニャコムの粗相の後始末に使ったら、雑巾はそのまま廃棄でした。
どうせ捨てるのなら、雑巾でなくてもいいんじゃないの? というのが切り替えの切っ掛けでした。

使い捨ては「もったいない」ことなのでしょうが、雑巾の後始末の洗いにかかる水や手間と時間、そして自分へのストレスを考えると、ペーパーウエスの使い捨ては、私にとっては「あり」だなあと思います。

手間が省けることで、掃除やお手入れのハードルが下がるのなら、「使い捨て」もいいんじゃないかしらと思う今日この頃。


年末になって、いろいろと余裕が無くなってきました。
そうはいっても隙間時間というのはあるもので、そんなときにちょっと見つけたのがこちら

動画 孔雀蜘蛛

タイトルからわかるように、蜘蛛とか虫がだめな人は見ない方が良いです。
体長5ミリくらいのハエトリグモの一種なのですが、メスにアピールするためにダンスをするオスの蜘蛛。
ダンスをメスが気に入らないと、食べられちゃうので命がけです。
おもしろキレイな蜘蛛ボーイw

自然ってほんとにおもしろいw

動画 ニードル タティングレース基本編

動画 ニードル タティングレース 小花のモチーフ

動画 イーネオヤ 基本の三角 作り方 その1

どちらも、縫い針をつかったレース編みです。
とくにイーネオヤは、トルコの伝統手芸で、かなり以前から興味津々でした。

タティングレースのほうは、シャトルをつかう方法はめんどくさそうで……w

実際にこれらに手を出すかどうかは未定ですが、いつかはやってみたいですね。
いまは編みかけのものや、縫いかけのものを片付けてから……orz


いくつかの言葉に納得してメモしておいたのですが、なぜ、なにを思って納得したのかということを書いてみたいと思います。

 いじっぱりは強情である。頑固で自分の考えを変えないときには、怒りが心を支配している。怒りは自分に向けているときもあり、他に対してのときもある。一つのことを思いこみ、こだわり、そこから離れられない状況に自分を追い込んだとき、意地をはる。そして沈黙する。

心が頑なになると、受け入れはできなくなる。


 一人暮らしの父方の叔母がいます。
年に数回くらいは様子を訪ねたり、親戚の冠婚葬祭で会います。
叔母は、子供達は独立ししてそれぞれに家をでて一家を構えていますし、数年前に夫を亡くしての晩年になってからの一人暮らし生活なのです。
高血圧でコレステロール値で医者から注意されているので、食事の仕方に気をつけなければいけないのですが、ある程度の年になってからの生活様式の変更には、なかなか対応しづらいのでしょう。
一人暮らしになると、どうしても老若関係無く、食事の支度が面倒になったりして適当に済ませることが多くなりがち。
面倒になっても、ちゃんと食事ができるように家事のやり方、食材の持ち方、作り置きのおかず、まとめての下ごしらえと保存の仕方、ご飯の冷凍保存などいろんなやり方があります。
ネットにも無縁、たまさかに読むのは美容院の女性雑誌くらい、隣近所も同じような年代、暮らしの方法をしている田舎の老婦人には、新しい家事の情報とか便利な情報に触れる機会はあまりありません。

行政主導の保健師が主体になった高齢者対象の健康についての集いのようなものはありますが、根本的な家事や生活レベルでの改善に触れることはありません。

うちの母親は、私がいろいろとやりまくるので、半ば諦めもあるのでしょうが、新しいやり方・工夫については概ね理解があります。
特にご飯を炊いたら、その回、食べる分だけを除いて、後は一食分ずつに小分けして冷凍するとか、おかずの作り置き・下ごしらえ・作り置きおかずからのリメイクなどには、一度その有用性と楽さを知ってから積極的にやるようになりました。

叔母との話で、ご飯食べようかと炊飯器をあけたら、炊くのを忘れてご飯がなかったので、面倒になってお菓子やおまんじゅうですませたなどという話があります。
そこで、すかさず母親が
「ご飯は、冷凍しとくがええよ。」
と、したり顔でアドバイスw
「冷凍?」
話にくいついたのが、叔母よりも同席していた娘である従姉妹。
「まとめて炊いたら一食分ずつ冷凍しておいて、残り2つくらいになったら次を炊くの。レンチンで5分で食べられるし、途中で麺類や外食しても、炊飯器のジャー保存と違ってご飯が傷まないから、かえって楽だよ。」
肝心の叔母のほうは、私の補足説明を沈黙で生返事。

後日、会った従姉妹は、さっそくご飯の冷凍運用をしてみたようで、
「便利! 中途半端な残りご飯に悩まなくてすむし、忙しいときにご飯炊きから始めなくていい! それに在庫管理が楽。」
と好評でした。
叔母のほうは、ふーん、と話半分でまともに考えていなかったようです。

それから2年後くらいに、改めて叔母からご飯の冷凍運用について相談されました。
いままでの家族がいた頃のような家事のやり方をしていては、高齢になった自分にとって辛いし、健康を維持することが難しくなってきたという自覚がようやく心に届いたのでしょうか。

「冷凍用の袋にご飯をいれて冷凍してもめんどくさい。」
フリーザーバッグにご飯を小分けして入れてみたようです。
ご飯用の一膳分ずつのタッパー容器があることを教えて、ホームセンターに一緒に行って購入のお手伝い。
ついでにランチ皿の小さいのをすすめて、洗い物を極力減らすように話してみました。

叔母から見れば私は、はるかに年下の子どもなのです。
親はどこまでいっても親で、子どもを対等の存在として見ることがないというのと同じなのでしょう。
自分より年下の存在から受けたアドバイスを素直に聞ける人は少ない。
上の言葉にあるように、たぶん最初に感じるのは、言っていることの善し悪しではなく、怒りだったのでしょう。
母親との片付けバトルでも、やはり似たような展開がありましたので、「怒り」という表現がすごく納得してしまいました。
今風に言う「ムカッとなった」ということですねw

やってみて良かったので、改めて母親である叔母にご飯の冷凍運用をすすめた従姉妹に、まだ心の怒りが溶けていなくて頑なになっている最中の叔母が、親子だからこその遠慮のなさでかなり強く反発してしまったようです。(従姉妹情報)
かなりはっきりと言ってしまった手前、従姉妹には相談できずに、言い出しっぺでもある私に相談してきたというのが真相みたいですw

高齢になると、新しい物事への受け入れは、だんだんにしにくくなってきます。
受け入れは、その人それぞれのペースがあるので、良いことでも押しつけに感じて「ムカッ」とすると、そこで沈黙という拒絶になってしまうこともよくあります(苦笑

実家の片付け・親との片付けで、ここが最初のハードルポイントになるんだと思います。
ここをどう越えるかは、人それぞれの個性・考え方・親子の関わり・現状での環境もあって、これだ! というような解決策がないと思います。
ただ言えることは、相手の言い分・気持ちを、よーく聞くことが一番の近道に感じます。
親も子も、基本的には他の人間なのだなあと改めて思いました。



 いじっぱりは強情である。頑固で自分の考えを変えないときには、怒りが心を支配している。怒りは自分に向けているときもあり、他に対してのときもある。一つのことを思いこみ、こだわり、そこから離れられない状況に自分を追い込んだとき、意地をはる。そして沈黙する。



心が頑なになると、受け入れはできなくなる。




人は身体が悪くなると、心の働きも制約を受け、自由活発に考え、行動することができなくなる。



長い時間をかけて「私」ができあがっていくから、間題解決には「私」の納得と安定が必要である。他の人がよいと思って押しつけても、自分がよいと思わなければなかなか心の中が落ち着かない。また、おいそれと他人がよいと思うことを受け入れるほど、個々の人間の存在は簡単ではない。問題解決の過程にはその入らしい宇余曲折があり、その人の好む方法を用いて解決することで安定が得られる。



何がおこったのかということの説明が主ではなく、そのとき私はどう思ったか、何がおこったかということより、それがおこったとき何を感じたかということの中に話したいことが隠されている。



 私たちが自分について話すとき、私たちが相手に伝えたいことは多くの場合、私たちの気持ちなのである。感情を理解し共感してもらうとき、私たちはわかってもらえたと感じる。共感するというのは、感情を共有することである。



援助は相手の自発を手助けするものが望ましい。
そのための生活改善は本人の納得が必要である。こちらの考えで相手を引っ張っていっても、本人自身の改善過程がないから生活態度を変えるのに困難が伴う。ああしてはいけない、こうしてはいけないと指示、命令して緊急時を切り抜けることができても、それ以後の生活は元に戻ってしまう。
自分の生活を変えていく必要があると自分が感じたとき、努力が続くのである。



公平であることも、正しいことも人は好きである。しかし人が多くの間題をかかえるとき、公平や正しさを求めて話をするのではない。自分の真情を吐露したいのである。その真情を理解してほしいのである。その過程の中で人はその人自身の力で、自分の持っている考えや感情を整理し、判断し、自分の本質に近づいていくのである。



自分の感情、考え、願いを相手に投影してはいけない



他の例を感心して聞くこともあるが、自身のことでないので心の中ではしっくりしない。



自分に無関心な人は人にも無関心である。



人は「いけないこと」であっても、「このように変わるとよくなる」ということであっても、物事によっては、そうすんなりと言動を変化させることはできない。それぞれ長い時間をかけて私を築いて生きているから、理屈を抜きにした自分の様式を持っている。

たとえ家族であっても、親子であっても、自分以外は「他の人」なのだと。
いろいろと思い当たることもあり、母親との片付けバトルの間のアレコレについて、いまさらながらに納得してしまう言葉でした。

これを読んだからといって何かの役にたつわけではないのですが、一つの視点、考え方、もののとらえ方としてメモしておきます。