でも、ここまではやらないかもw
らばQ 「ステッチアートは屋外向けじゃないと思った?」→網とロープを使えばこんなことができる
この記事を読んだときには、割と目からウロコ状態でした。
この発想はなかった! と。
こういう意外な応用アイデアは大好きw
そうはいっても隙間時間というのはあるもので、そんなときにちょっと見つけたのがこちら
動画 孔雀蜘蛛
タイトルからわかるように、蜘蛛とか虫がだめな人は見ない方が良いです。
体長5ミリくらいのハエトリグモの一種なのですが、メスにアピールするためにダンスをするオスの蜘蛛。
ダンスをメスが気に入らないと、食べられちゃうので命がけです。
おもしろキレイな蜘蛛ボーイw
自然ってほんとにおもしろいw
いじっぱりは強情である。頑固で自分の考えを変えないときには、怒りが心を支配している。怒りは自分に向けているときもあり、他に対してのときもある。一つのことを思いこみ、こだわり、そこから離れられない状況に自分を追い込んだとき、意地をはる。そして沈黙する。
心が頑なになると、受け入れはできなくなる。
一人暮らしの父方の叔母がいます。
年に数回くらいは様子を訪ねたり、親戚の冠婚葬祭で会います。
叔母は、子供達は独立ししてそれぞれに家をでて一家を構えていますし、数年前に夫を亡くしての晩年になってからの一人暮らし生活なのです。
高血圧でコレステロール値で医者から注意されているので、食事の仕方に気をつけなければいけないのですが、ある程度の年になってからの生活様式の変更には、なかなか対応しづらいのでしょう。
一人暮らしになると、どうしても老若関係無く、食事の支度が面倒になったりして適当に済ませることが多くなりがち。
面倒になっても、ちゃんと食事ができるように家事のやり方、食材の持ち方、作り置きのおかず、まとめての下ごしらえと保存の仕方、ご飯の冷凍保存などいろんなやり方があります。
ネットにも無縁、たまさかに読むのは美容院の女性雑誌くらい、隣近所も同じような年代、暮らしの方法をしている田舎の老婦人には、新しい家事の情報とか便利な情報に触れる機会はあまりありません。
行政主導の保健師が主体になった高齢者対象の健康についての集いのようなものはありますが、根本的な家事や生活レベルでの改善に触れることはありません。
うちの母親は、私がいろいろとやりまくるので、半ば諦めもあるのでしょうが、新しいやり方・工夫については概ね理解があります。
特にご飯を炊いたら、その回、食べる分だけを除いて、後は一食分ずつに小分けして冷凍するとか、おかずの作り置き・下ごしらえ・作り置きおかずからのリメイクなどには、一度その有用性と楽さを知ってから積極的にやるようになりました。
叔母との話で、ご飯食べようかと炊飯器をあけたら、炊くのを忘れてご飯がなかったので、面倒になってお菓子やおまんじゅうですませたなどという話があります。
そこで、すかさず母親が
「ご飯は、冷凍しとくがええよ。」
と、したり顔でアドバイスw
「冷凍?」
話にくいついたのが、叔母よりも同席していた娘である従姉妹。
「まとめて炊いたら一食分ずつ冷凍しておいて、残り2つくらいになったら次を炊くの。レンチンで5分で食べられるし、途中で麺類や外食しても、炊飯器のジャー保存と違ってご飯が傷まないから、かえって楽だよ。」
肝心の叔母のほうは、私の補足説明を沈黙で生返事。
後日、会った従姉妹は、さっそくご飯の冷凍運用をしてみたようで、
「便利! 中途半端な残りご飯に悩まなくてすむし、忙しいときにご飯炊きから始めなくていい! それに在庫管理が楽。」
と好評でした。
叔母のほうは、ふーん、と話半分でまともに考えていなかったようです。
それから2年後くらいに、改めて叔母からご飯の冷凍運用について相談されました。
いままでの家族がいた頃のような家事のやり方をしていては、高齢になった自分にとって辛いし、健康を維持することが難しくなってきたという自覚がようやく心に届いたのでしょうか。
「冷凍用の袋にご飯をいれて冷凍してもめんどくさい。」
フリーザーバッグにご飯を小分けして入れてみたようです。
ご飯用の一膳分ずつのタッパー容器があることを教えて、ホームセンターに一緒に行って購入のお手伝い。
ついでにランチ皿の小さいのをすすめて、洗い物を極力減らすように話してみました。
叔母から見れば私は、はるかに年下の子どもなのです。
親はどこまでいっても親で、子どもを対等の存在として見ることがないというのと同じなのでしょう。
自分より年下の存在から受けたアドバイスを素直に聞ける人は少ない。
上の言葉にあるように、たぶん最初に感じるのは、言っていることの善し悪しではなく、怒りだったのでしょう。
母親との片付けバトルでも、やはり似たような展開がありましたので、「怒り」という表現がすごく納得してしまいました。
今風に言う「ムカッとなった」ということですねw
やってみて良かったので、改めて母親である叔母にご飯の冷凍運用をすすめた従姉妹に、まだ心の怒りが溶けていなくて頑なになっている最中の叔母が、親子だからこその遠慮のなさでかなり強く反発してしまったようです。(従姉妹情報)
かなりはっきりと言ってしまった手前、従姉妹には相談できずに、言い出しっぺでもある私に相談してきたというのが真相みたいですw
高齢になると、新しい物事への受け入れは、だんだんにしにくくなってきます。
受け入れは、その人それぞれのペースがあるので、良いことでも押しつけに感じて「ムカッ」とすると、そこで沈黙という拒絶になってしまうこともよくあります(苦笑
実家の片付け・親との片付けで、ここが最初のハードルポイントになるんだと思います。
ここをどう越えるかは、人それぞれの個性・考え方・親子の関わり・現状での環境もあって、これだ! というような解決策がないと思います。
ただ言えることは、相手の言い分・気持ちを、よーく聞くことが一番の近道に感じます。
親も子も、基本的には他の人間なのだなあと改めて思いました。
心が頑なになると、受け入れはできなくなる。
人は身体が悪くなると、心の働きも制約を受け、自由活発に考え、行動することができなくなる。
長い時間をかけて「私」ができあがっていくから、間題解決には「私」の納得と安定が必要である。他の人がよいと思って押しつけても、自分がよいと思わなければなかなか心の中が落ち着かない。また、おいそれと他人がよいと思うことを受け入れるほど、個々の人間の存在は簡単ではない。問題解決の過程にはその入らしい宇余曲折があり、その人の好む方法を用いて解決することで安定が得られる。
何がおこったのかということの説明が主ではなく、そのとき私はどう思ったか、何がおこったかということより、それがおこったとき何を感じたかということの中に話したいことが隠されている。
私たちが自分について話すとき、私たちが相手に伝えたいことは多くの場合、私たちの気持ちなのである。感情を理解し共感してもらうとき、私たちはわかってもらえたと感じる。共感するというのは、感情を共有することである。
援助は相手の自発を手助けするものが望ましい。
そのための生活改善は本人の納得が必要である。こちらの考えで相手を引っ張っていっても、本人自身の改善過程がないから生活態度を変えるのに困難が伴う。ああしてはいけない、こうしてはいけないと指示、命令して緊急時を切り抜けることができても、それ以後の生活は元に戻ってしまう。
自分の生活を変えていく必要があると自分が感じたとき、努力が続くのである。
公平であることも、正しいことも人は好きである。しかし人が多くの間題をかかえるとき、公平や正しさを求めて話をするのではない。自分の真情を吐露したいのである。その真情を理解してほしいのである。その過程の中で人はその人自身の力で、自分の持っている考えや感情を整理し、判断し、自分の本質に近づいていくのである。
自分の感情、考え、願いを相手に投影してはいけない
他の例を感心して聞くこともあるが、自身のことでないので心の中ではしっくりしない。
自分に無関心な人は人にも無関心である。
人は「いけないこと」であっても、「このように変わるとよくなる」ということであっても、物事によっては、そうすんなりと言動を変化させることはできない。それぞれ長い時間をかけて私を築いて生きているから、理屈を抜きにした自分の様式を持っている。
たとえ家族であっても、親子であっても、自分以外は「他の人」なのだと。
いろいろと思い当たることもあり、母親との片付けバトルの間のアレコレについて、いまさらながらに納得してしまう言葉でした。
これを読んだからといって何かの役にたつわけではないのですが、一つの視点、考え方、もののとらえ方としてメモしておきます。
その中でで、ずいぶんと古い時代の専門書(国家資格が必要な職業)なのですが、ところどころ唸らされるような言葉があります。
自己防衛が強いと、自分とうまくコミュニケーションができない。
人は見たくないもの、知りたくないものには気づきにくい。
自分自身と充分にコミュニケーションをしている人は、自己理解も深まり、自分で納得のいく生き方ができるのである。
正しいと思うが賛成しかねる、よいと思うがしたくない、など複雑な気持ちを味わうことがある。人間は正しいからとか必要だからの理由だけで行動できるものではない。
人が納得して行動するのは、理論ではなく感情が満足したときである。
片付けとはぜんぜん関係ない分野の専門書ですが、私が家族とともに片付けをやってきて、いろいろと思うところ・感じたところが、明快に文章として明記されているように感じました。
とりあえずメモしておきます。
親と同居で片付けをしてきて思ったことは、「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」ということ。だから回りができることは、生活スペースから使わないものを取りのけることだけだと思う。それ以外は捨てることを想定して仕分けしておくことだけが出来ることだろうなあ。
— MAO (@MAO_uono) 2015, 11月 13
カタログギフトをいただくと、親は必ず「形の残るもの」を希望し、私はほどほどな「消えモノ」を選ぶ。このへんが世代の違い?
— MAO (@MAO_uono) 2015, 11月 14
時々、母親とモノの持ち方について話題にするけど、母親曰く「ミニマリストいうは、ものに不自由な生活をしたことがない人やないのんか?飢えたり、ものが無くて苦労した人には難しいわあ」と。一理あるような気もするけど、本当のところはどうなんだろう。
— MAO (@MAO_uono) 2015, 11月 16
親世代の「もったいない」の不思議。
捨てるのはもったいない、罰が当たるとよく言うけど、「使わないのはもったいない」「食べないのにもったいない」とは言わないんだよね。
— MAO (@MAO_uono) 2015, 11月 6
ベルンド・ケストラーの「スパイラルソックス」という編み本をかったのだけど、著者近影のごっつい大型バイクに寄りかかったバリバリのコマンダー風ライダー姿の著者がにこやかに編み物をしてる写真にツボった。
— MAO (@MAO_uono) 2015, 11月 7
編み物の季節到来。だけど、手持ち在庫の糸をどうにかしてからでないと、新しい糸を買うのはだめだろうと思いとどまる。半端な残り糸やらなにやら全部を「アルネ&カルロス」の本に出ていたブランケットに編もう。こういう後始末を考えると糸の定番を決めるのも大事になるなあ。
— MAO (@MAO_uono) 2015, 11月 9
自分がとてもズボラでめんどくさがりなのを自覚しているので、編み糸はウールものは避けたい。だって糸の保存や編んだもののお手入れ・保管に気を遣わないとだめになっちゃうじゃないですか。アクリル糸でも最近はすごく良いものができているので、そっちを検討中。
— MAO (@MAO_uono) 2015, 11月 11
親と同居で片付けをしてきて思ったことは、「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」ということ。だから回りができることは、生活スペースから使わないものを取りのけることだけだと思う。それ以外は捨てることを想定して仕分けしておくことだけが出来ることだろうなあ。
— MAO (@MAO_uono) 2015, 11月 13
長い文章を書くのがおっくうになってきたので、たま~に使っているTwitterくらいの長さがいいのかもしれない。
ちょっとだけ試験的にTwitterと併用してみようかな。
悲鳴をかみ殺して、ありがたや、ありがたやと拝んでおく。
さて、ちょいと面白い読みもの。
確実に身につける!メモ術基本レッスン
身に覚えがありすぎる、あるあるな内容で耳が痛いです。
来年は、ちょっと私もメモの取り方、使い方を考え直してみるべきだと痛感しております。
なんでそう思ったのかは、またいずれ記事にしたいと思いますが、とりあえずは、メモしておきます。